治療家としてのキャリア2 病院におけるあはき師
今回から按摩マッサージ指圧師、鍼師、灸師を合わせて あはき師と呼称させていただきます。
1987年にあはき師免許を取得し学校を卒業するにあたり進路の方向性を迷っておりました。
サウナや雀荘、温泉マッサージで日銭を稼ぐ仕事を続けるのも悪くない。
しかしこれはその頃のアホみたいなバブル景気がいつまでも続くとは思えないので却下いたしました。
またはあと三年、夜学にでも通い柔道整復師の免許をとるのも考えました。
これはいわゆる骨つぎ、接骨院開業資格です。
この資格は独自に健康保険が扱えるのはので将来的に独立するには良いかとも思いました。
が、学校にかかる費用や学校が乱立しつつあり飽和状態になる日も近いと言う理由で却下しました。
事実現在、一つの街に片手では数えきれないほどの数の接骨院がある事を見ればお分かりいただけるかと思います。
あとはもう少し音楽を仕事としてやるなんてのもちらっと考えました。
当時、キャバレーの箱バンやちょっとしたレコーディングなどトラとして参加しても良い稼ぎになったのですが、またそう言うツテもありましたが、日銭マッサージと同じ理由で却下しました。
そんな時に知り合いの理学療法士からとある病院にリハビリを立ち上げるからやってくれと話を紹介されました。
とりあえずサラリーマンも安定してて悪くないかと話を受ける事にしました。
千葉県君津市小糸地区、鹿野山ふもとの田園風景が広がるだけの田舎町に移り住んで病院勤務を開始しました。
こここで約2年、のんびり仕事したんですが、あまりにのんびりしすぎて平和ボケしそうになりまして、後釜もきまりましたし都内に戻る事にしました。
平成元年より13年間、板橋区の脳神経外科、整形外科を中心に扱う病床数100ほどの中規模病院に勤務しました。
あの当時は病院における あはき師の求人てけっこうたくさんあったんですが、現在はほとんど無くなりました。
その理由は病院におけるリハビリの保険点数とそのシステムの諸々のせいなんですが、つまりはあはき師を雇っても金にならなくなったからなんですよ。
まあ北里大学研究所の東洋医学研究科や玉川病院の鍼灸科なんてイレギュラーはありますが、あれらは意味合い的には病院に併設された自費治療院みたいなものでふさら話が違ってきます。
まあそれはさておき、病院に在籍した事にはメリット、デメリットがありました。
メリットは一般の治療院ではおそらく見ることができないだろう様々な症例に関われた事です。
重度の整形外科疾患の術後リハビリ。
足や腕の切断面のケアや装具や義足などの使用に関する指導。
複数箇所同時骨折のリハビリのやり方。
脊髄損傷による半身麻痺。
失認、など高次脳機能障害。
昔は今みたいに仕事が細分化されてなかったので何でも我々がやったもんです。
デメリットは知識や技術経験として蓄積されはじめた頃に起こり始めました。
病院てえところはあくまでドクターが中心にいて我々はあくまでサポート役なんですよ。
また保険報酬の仕組みもそうできています。
例えば寝違いなんかで受診した場合、お金になるのは各種検査とドクターによる処置、そして投薬の処方代です。
急性機においてリハビリで金になる事は何もありません。
今ならちょいとした治療で改善させられるるさまざまな術式、技術は一線にもならない。
これは、けっこうキツイです。
給料もらうためにと割り切ればいいんでしょうが、自分のスキルが高くなればなるほどアホらしくなって当然ですよね。
で、ちょうど9.11あめりか同時多発テロの二週間後に15年間続いた病院勤務をおわりにしました。
あ、テロとは関係ないですからね。
わたし何もやってないですからね。